野入 仁(のいり じん)

【生年月日】 1962年(昭和37年)1月9日 寅 やぎ座

【血液型】 A型

【出身地】 長崎県 佐世保市

【現住所】 福岡市 城南区 東油山

住んだことがある場所

  • 長崎県佐世保市 誕生~高校卒業まで 🙂

佐世保市内を4回転居(須佐町アパート ⇒ 白木町 ⇒ 福田町 ⇒ 桜木町)

  • 東京都世田谷区 大学時代

砧8丁目 ⇒ 経堂2丁目 ⇒ 経堂5丁目

  • 横浜市 社会人になって

港北区日吉 ⇒ 緑区黒須田町 ⇒ 緑区しらとり台 ⇒ 戸塚区深谷団地

  • 福岡市城南区 平成4年(1992年)~ 現在

 

学 歴

  • 幼稚園 私立アソカ幼稚園(つき組) S43.3卒園

チョロチョロして落ち着きが無い、先生の言うことをきかないと言われ、よく怒られていました。

  • 小学校 小佐世保小学校 ⇒ 保立小学校 ⇒ 春日小学校 S49.3卒業

4年生頃から友達と一緒によく釣りに行くようになりました。休日は自転車やバスで海に行き、平日は近所の川や池で釣りばかりしていました。

  • 中学校 佐世保市立大野中学校 S52.3卒業

柔道部やサッカー部に入りましたが長続きしませんでした。2年生の時、ワルさ仲間の友達が「バンドをやろう!」と言い出し、私はベース担当でバンドのまねごとを始めました。

  • 高校 長崎県立佐世保西高校 S55.3卒業

普通科の高校です。他の中学から来た音楽好きの子達と仲良くなりバンドを組みました。レッドツェッペリンから始まって、ラリー・カールトンなどのフュージョン系もやっていました。3年生になるとベースからギターに転向しました。

体育祭の後夜祭でのライブ

 

3年生の時、体育祭でのライブ

向かって右のギターが私です。もう一人のギターは佐世保工業の岩谷君。

 

 

  • 大学  専修大学 経済学部 S59.3卒業

軽音楽サークルに入り、違う趣向のバンドを3つ位掛け持ちでやっていました。そんな調子で大学時代はバンド活動とバイトしかやった記憶がなく、よく卒業できたと今でも不思議です。

 

◎職 歴

◎ビルメンテナンスの営業 22才~23才

新卒で、東京のビルの給排水設備やメンテナンスの会社に営業職として就職しました。仕事内容は徹底的な飛び込みオンリーの新規開拓営業。他の営業手法は一切ナシ。会社の同僚や先輩達はいい人ばかりでしたが、都内や近県のビルやホテルにひたすら飛び込み営業する毎日でだんだんと疲弊していき、ついに翌年の12月末に退職しました。ちなみにこの会社は、今では年商142億円で社員数486名になっていて、名前を出せば特に男性は知っている人も多いと思います。

◎自動車整備士 24才~31才

次の仕事は車のチューニングをやろうと決めていて、まずは整備工の見習いからスタートし3年後には2級ガソリンエンジン整備士の国家資格を取ることができました。この頃愛車セリカ1,600GTに搭載されている同じ2TG型エンジンを解体屋から仕入れて、仕事が終わるとこっそり一人工場に残ってエンジンのチューニング作業に没頭するようになりました。

◎九州に戻り、整備士をしていた頃 30才~31才

26才頃から釣りにハマるようになって、釣りをするなら断然九州のほうが良いと思いUターンを決心しました。故郷の佐世保へ戻ろうと考えたのですが親の勧めで30才になった年の3月に福岡にやって来ました。就職先の自動車整備工場はすぐに見つかりましたが、その工場は大型車の入庫も多く、大型車の整備は部品も道具も重くて大変な重労働でした。だんだんと腰や背中に疲労が溜まり痛みも出るようになりました。それまでは独立して修理工場かチューニングショップを開きたいと思っていたのですが、場所の確保や資金面でも簡単ではないしやめようかなと思い始めたのでした。

◎整備士をやめ保険会社の代理店研修生をしていた頃 31才~36才

そんなある日、新聞の求人広告のある会社に目が留まりました。そこには「独立する人材求む!」みたいなキャッチコピーがあり「最長5年の研修期間を終了すると顧客を引き継いで独立できます!」とありました。その求人広告を出していたのはAIUという外資系の損害保険会社で、よく読んでみると保険会社が最長5年間営業社員として雇用するので、その間に自分で営業して、独立してやっていけるだけのお客を作って下さいね!ということでした。その当時の私は、保険については全く知識が無く、もちろん保険業界のことも全く知りません。でも、何かで独立したいと思っていた私は「これでもやってみるか?」と思い、2回の面接と適正検査を受けて採用となったのです。そして1993年の11月に入社し2ヶ月間の基礎研修を経て1994年1月に研修生としてスタートを切りました。AIUでは研修生のことを「IS社員」と呼んでいましたが、このIS社員は5年間雇用が保証されている訳ではなく、独立基準の年間売り上げ高を60で割った数値を毎月達成しているかを3ヶ月毎にチェックされて、はかばかしくない人は退職を勧告されるのです。無事に代理店独立までたどり着くことができるのは10%以下という厳しい世界でした。IS社員を指導する役目の正社員の人は保険の内容や規定については詳しいのですが、一番肝心なお客をどうやって獲得するかについては、「飛び込み、DM、テレアポのいずれかをやり続けるしかない!」としか言いません。素直だった私はその言葉を信じて商店や中小企業に飛び込みやテレアポ営業をかける毎日を送っておりました。今にして思えば飛び込み営業やテレアポでご迷惑をかけたお店や会社も多かったことと思いますが、その甲斐もあって1997年には独立基準を超えることが出来、1998年の12月に代理店として独立することが出来たのです。

◎代理店独立してから合併するまで 36才~39才

私が代理店として独立した頃は、損保の代理店にとって「古き良き時代」が終わろうとしていた頃でした。その当時の保険代理店は保険会社と代理店委託契約を結ぶと、売り上げ規模に関係なく代理店種別に応じた手数料がもらえたのです。保険商品もどの保険会社で加入しても全く同じ内容で、いわゆる「護送船団方式」という形で保護されていたのです。ところが、アメリカなど外国からの圧力により日本の金融市場を自由化して海外企業も参入しやすくするように求められるようになってきたのを受け、当時の橋本龍太郎総理は「日本版ビッグバン」と称して金融業界の抜本的改革を2001年までに行うことを目標とし、金融業界全体に大きな変革を起こすことになったのです。私たち保険業界への影響としては、保険会社ごとに独自商品が登場し、子会社方式による生損保相互参入が始まるなどで、今までどこの保険会社で加入しても補償内容も保険料も全く一緒だった損保商品は、保険会社によって補償内容と保険料が違う時代に入りました。そして保険を販売する私たち代理店にも大きな変革の波がやって来たのです。それは、保険商品の自由化だけでなく代理店手数用の自由化も同時に始まったのです。それまで保険会社はどの代理店にも同じレートで手数料を払っていたのですが、保険会社に対する貢献度に応じて手数料レートを変えるようになったのです。具体的には、売り上げ規模と保険会社の方針にどれだけ従っているかを数値化してポイント制にしそのポイントによって手数料レートが決まるようになったのです。そうなると売り上げ規模の大きい法人代理店の方が有利です。保険会社は個人代理店に対して組織化して法人化するよう求めるようになり、そうしないとポイントが付かない仕組みにしたのです。売り上げ規模が小さく組織化されていない代理店に対してしはそれまでの60%程の手数料しか払われないような状況となったので、個人代理店の多くは、集まって法人化したり、既存の組織化されている法人代理店に吸収合併されるという道を選ぶようになりました。

◎法人代理店と合併して、その代理店を辞めるまで 39才~54才

金融ビッグバンの時代を迎えて私が選択したのは、既存の法人代理店に吸収合併されるという道でした。私は代理店独立後に、あるお客さんの勧めで中小企業家同友会に入ったのですが、そこで懇意になった法人代理店の社長から吸収合併を提案されたのです。始めは自分の独立性が失われることにためらいもありましたが、自力で組織化・企業化するよりも早くできるし手数料ポイントの心配も無くなると考え2001年9月に自分の代理店を廃業しその法人に吸収される形で合併を実行したのです。そこでの仕事はそれまでの自分のお客への対応だけでなく社員として社長の方針に従って会社を発展させることを求められました。給与体系は代理店としては珍しく歩合給無しの完全固定制で年2回のボーナス付という普通の会社のサラリーマンと同じになりました。その会社では保険ショップの展開などの事業を手掛けたり多忙で毎晩10時頃まで残業したものです。しかし、結局ショップ展開はうまくいかずに元の通常の形態に戻りました。そしてなんと!理由は詳しく書けませんが、私を合併に誘った社長は2014年に経営権を譲渡して会社を辞めてしまったのです!その後、2016年10月で私も辞めさせられることになったのです。

◎代理店を移籍 54才~現在

思わぬ展開でクビと同じ状況になり、移籍先を探さなくてはならなくなりました。どこに行こうかと考えた時に、同業者で20数年来の釣り仲間でもある久留米の代理店に所属しているYさんに電話して状況を説明しました。すると、自分の代理店の社長に話してみるから相談に来いと言ってくれたのでした。その社長も私とは20数年来の知り合いでたまに釣りに行く関係でした。そして、相談に行くとあっさり「ウチに入ってやってみれば?出勤は営業会議がある日だけでいいよ」と言ってくれたので私もすぐに「お願いします!」と答え移籍することになったのです。移籍先はすぐに決まったのですがここで新たな問題が!所属が久留米の代理店ということで、理由は割愛しますが移管ができない契約が多数出てしまい、保有していた損保の数字を大きく減らすことになったのです。移籍先が福岡市内の代理店なら問題ないのですが、久留米の代理店を断って今さら他を探す訳にもいかないと思い、数字が減るのを覚悟の上、久留米の代理店に移籍することしました。この代理店の給与体系はその前と違って一部固定給はあるものの(金融庁のお達しによりそのようにせざるを得ないため)歩合給が中心なので売り上げ数字が減るということは収入が減るということなのです。また、ここは法人代理店で人数も13人いるのですが各自自分の担当客の対応しかしないのです。つまり、個人代理店が集まって仕事をしているような感じです。そのため一応会社員ではあるものの、また以前の個人代理店に戻った状態です。

◎現在の仕事の取り組み

①保険の仕事に携わるようになり27年経ちました。損害保険会社の研修生から始まり独立後も損保中心の業務でしたが、個人が抱えるリスクを考えた場合、これまでお客様が病気や事故で亡くなった方というのは数えるほどしかいません。つまり大多数の人が無事に老後を迎えるのです。しかも、寿命は段々と長くなっています。こう考えると出来るだけ若いうちに退職後に備えた貯蓄をスタートする必要があるのです。しかしこの低金利の時代に効率的な貯蓄をしている人はまだまだ少ないのです。このことを実感した今、一人でも多くの方に保険を活用した安全で利回り良く貯蓄する方法をお伝えしたいと考えております。

②我が国の生命保険の世帯加入率は約90%と言われていますが、自分が総額一体いくら支払うことになるのか?保障が将来どのようになっていくのか?これが明確にわからないままに加入している人が実にたくさんいるのです。一番の問題は更新型と言われる保険に加入している人の場合で50才を過ぎて更新を迎える時、保険料がそれまでの2倍、3倍になるのが初めてわかって慌てて見直しをしようとする人が多いことです。この時点で見直しをしようとしてもうまくいかないこともあります。最悪なのは、現在の契約内容を確認したらあと10年位で保障が終わることが分かったが既往症を抱えているため新たな保険に入ることも出来ない!しかも今まで払ってきた1,000万円以上の保険料はこのまま契約を続けても生きていれば殆ど掛け捨てとなり戻って来ない!期限までに死なないとお金が払われない!という状態、つまり、「生命保険で大損!」となってしまうケースです。

こうならないためにはどうすればいいのでしょう?

答えは簡単で、できるだけ若いうちに自分の契約内容を正しく把握して必要であれば適切な内容に見直すことなのです。

このように「生命保険で大損!」とならないように一人でも多くの人を救えるように取り組んでいます。