◎ビルメンテナンスの営業 22才~23才

大学卒業後は東京でビルの給排水設備やメンテナンスの会社に営業職として就職しました。仕事内容は徹底的な飛び込みオンリーの新規開拓営業。他の営業手法は一切ナシ。会社の同僚や先輩達はいい人ばかりでしたが、都内や近県のビルやホテルにひたすら飛び込み営業する毎日でだんだんと疲弊していき、ついに翌年の12月末に退職しました。ちなみにこの会社は、今では年商142億円で社員数486名になっていて、名前を出せば特に男性は知っている人も多いと思います。

◎自動車整備士 24才~31才

退職時には、次の仕事は車のチューニングをやろうと決めていました。なんで車かというと、もともと子供のころから機械いじりなどメカニカルな事が好きだったこともあって大学時代に車が大好きになったのです。19才で車の免許を取ってからは友達や親戚の車、帰省したときは実家の車を乗り回していました。学生時代のアルバイトも車の運転関係を沢山やりました。そのため就職してまず買ったものは車です。S55年式のTA-45セリカ1600GT エンジンはDOHCの2T-GEUで100万円位でした。もちろんローンです。学生の時に市販車をチューニングしてパワーアップして乗っている人達がいることを知り、「絶~対、これやってみたい!」とず~っと思っていたのです。当時はインターネットなどありませんから本や雑誌が情報源でした。なかでも”CARBOY”という雑誌はチューニングのノウハウ、実践した人のレポートなどの記事が充実していました。しかしチューニングといっても車の構造や整備について素人の私は、まずは車のことを知らなければなりません。そのため、整備工の見習いからスタートしようと決めました。前職の時は横浜市港北区の日吉にあった社員寮にいたのでそこを出て、緑区(現青葉区)の黒須田町という東急田園都市線のあざみ野駅からさらに奥地の田舎にアパートを借りました。その近辺の整備工場に直接飛び込んで仕事を探せばいいやと簡単に考えていました。さて、引越しも一段落して仕事探しの1日目です。昼過ぎにアパートを出て青葉台方面に行ってみることにしました。途中何件か整備工場があったのですが雰囲気が合わずにスルーしました。17時頃、青葉台から十日市場に向かう川沿いの裏通りを走っていると一件の町工場がありました。見ると工場の中で板金作業をしている人が一人いたので「ここに聞いてみよう」と思い車から降りて声を掛けました。

私:あの~、こちらの社長さんですか?

工場の人:そうですよ。

私:あの~、つかぬこと伺いますが私を雇って頂けませんか?

工場の人:エッ!今なんて言った!?

私:まずは見習いから始めたいんですが・・・

工場の人:チョットこっちに来なさい!!

私は3畳位の掘っ立て小屋みたいな小さな事務所に通されました。この工場は社長が板金担当で奥さんが経理と事務、塗装工が1人、整備士が2人の総勢5名の工場でした。丁度ベテランの整備士が辞めたばかりで人を探していたところだったとのことで、トントン拍子に話が進み、作業服も用意してくれて「明日から来なさい!」ということになりました。でも、チューニングをやりたいと思っていることは内緒でした。その社長はとってもいい人で、私が独身だったので「朝食はウチで食べなさい!一人位増えてもたいして変わらないから(奥さんは横で微妙な顔をしていました)」と言ってくれて毎朝8時に社長の自宅で朝ごはんを頂くようになりました。やりたい仕事だったので毎日楽しかったです。そうやって資格も3級を経て3年後には2級ガソリンエンジン整備士の国家資格を取ることができました。この頃愛車セリカ1,600GTに搭載されている同じ2TG型エンジンを解体屋から仕入れてきました。そして、仕事が終わるとこっそり一人工場に残ってエンジンのチューニング作業に没頭するようになりました。

整備士の傍らエンジンチューニングに没頭してた頃 26才~29才

エンジンのチューニング方法にもいくつか種類があるのですが、そもそも何のためにチューニングするのかというとパワーアップによりノーマル車よりも圧倒的な加速力を得られ、高回転で回るエンジン音や吸気・排気音を楽しむという完全自己満足の世界に浸るためです。レシプロエンジンのパワーアップにはターボチューンとメカチューンの2種類があるのですが、私がやっていたのはメカチューンの方です。ターボチューンは手っ取り早く確実にパワーアップ出来るのですが、パーツや加工箇所が多くなるためメカチューンよりも遥かに費用がかかります。ターボ車は1979年に日産のセドリック/グロリアにターボエンジンが搭載されて国産初のターボ車が登場しました。翌1980年にはスカイラインにも搭載され ”スカGターボ” と呼ばれて人気がありましたねぇ。”西部警察” ではショットガンをブッ放す渡哲也さんが乗り回していた車で、フロントバンパーの「TURBO」の逆文字が印象的でした。私がチューニングに取り組んでいたトヨタの2TGというツインカムエンジンは、チューニングの素材として日産のL型エンジンと人気を二分するエンジンでした。ガソリン車は今でこそツインカム(DOHC)エンジンが当たり前ですが、当時市販されていたツインカムエンジンはトヨタの2TG型と18RG型の2機種しか存在せず中でも1,600CCの2TGはチューニングパーツやノウハウの豊富さから人気がありました。1年以上の時間をかけて作り上げたエンジンは愛車のセリカに載せるとキャブレーションはEFIを取っ払いソレックス44を付けました。エキゾースト系はもちろんタコ足と改造マフラーの組み合わせです。実際どれくらいの馬力が出ていたのかはわかりませんが、凄まじい給気音(排気音ではない!)を響かせ夜中の港北ニュータウンを滑走しておりました。

◎九州に戻り、整備士をしていた頃 30才~31才

そうこうしているうちに、そろそろ九州に戻りたいなあ~と思うようになりました。何故かというと26才頃から釣りにハマるようになって、釣りをするなら断然九州のほうが良いと思ったからです。そして、故郷の佐世保へ戻ろうと考えたのですが両親から佐世保より福岡の方が仕事が多いし同居もしたくないので福岡に行けと勧められ、30才になった年の3月に福岡にやって来ました。仕事を見つけるためにハローワークに行くと自動車整備士の仕事は一発で見つかりその日のうちに就職先が決まりました。そして4月からその自動車整備工場で働き始めましたが、横浜の工場と比べると、どうも居心地が悪かったのです。それは何故かというと、この工場はただひたすら車検整備や修理といった「仕事」だけで、終業時間後に工場に残って好きなことをやるのは許されなかったのです。横浜では終業後にステンレスの鋼材を加工して釣りの道具を作ったり、自分の車の手入れをしたりといったことが自由に出来たのですが、ここでは一切そんなことは出来ません。自分の車の車検整備する時もお金を払わないといけません。そして、大型車の入庫も多かったのですが、大型車は部品も道具も重くて大変な重労働なのです。だんだんと腰や背中に疲労が溜まり痛みも出るようになりました。それまでは自分で独立して修理工場かチューニングショップを開きたいと思っていたのですが、場所の確保や資金面でも簡単ではないしやめようかなと思い始めたのでした。

◎整備士をやめ保険会社の代理店研修生をしていた頃 31才~36才

そんなある9月の土曜日、新聞の勧誘が来ました。しつこく勧誘され結局根負けして契約してしまいましたが、このことがその後の私の進路に大きな影響を与えることになるとは夢にも思いませんでした。勧誘員は「さっそく今日の夕刊から入れますね!」と言って帰り、その言葉通り夕方になると夕刊が配達されてきました。せっかくきたのだからと読んでみると、求人広告欄のある会社に目が留まりました。そこには「独立する人材求む!」みたいなキャッチコピーがあり「最長5年の研修期間を終了すると顧客を引き継いで独立できます!」とありました。その求人広告を出していたのはAIUという外資系の損害保険会社で、よく読んでみると保険会社が最長5年間営業社員として雇用するので、その間に自分で営業して、独立してやっていけるだけのお客を作って下さいね!ということでした。その当時の私は保険については全く知識も何もない状態でした。もちろん保険業界のことも全く知りません。でも、何かで独立したいと思っていた私は「これでもやってみるか?」と思い、月曜になると早速電話をして面接の予約を入れました。そして面接の当日、しばらく7年ほど着きていなかったスーツを着、革靴をはいて面接に出かけたのでした。当時AIUの福岡支店は中州の那珂川沿いにありました。天神でバスを降りて歩き始めたときに路上の靴磨きのおじさんに呼び止められ「靴を磨いたほうがいいよ」と言われ磨いてもらって面接に臨みました。その後2回の面接と適正検査を受けて無事採用となったのです。そして1993年の11月に入社し2ヶ月間の基礎研修を経て1994年1月に研修生としてスタートを切りました。AIUでは研修生のことを「IS社員」と呼んでいましたが、このIS社員は5年間雇用が保証されている訳ではなく、独立基準の年間売り上げ高を60で割った数値を毎月達成しているかを3ヶ月毎にチェックされて、はかばかしくない人は退職を勧告されるのです。無事に代理店独立までたどり着くことができるのは20%以下という厳しい世界でした。IS社員を指導する役目の正社員の人は保険の内容や規定については詳しいのですが、一番肝心なお客をどうやって獲得するかについては、「飛び込み、DM、テレアポのいずれかをやり続けるしかない!」としか言いません。素直だった私はその言葉を信じて商店や中小企業に飛び込みやテレアポ営業をかける毎日を送っておりました。今にして思えば飛び込み営業やテレアポでご迷惑をかけたお店や会社も多かったことと思いますが、その甲斐もあって1997年には独立基準を超えることが出来、1998年の12月に代理店として独立することが出来たのです。

◎代理店独立してから合併するまで 36才~39才

私が代理店として独立した頃は、損保の代理店にとって古き良き時代が終わろうとしていた頃でした。その当時の保険代理店は保険会社と代理店委託契約を結ぶと、売り上げ規模に関係なく代理店種別に応じた手数料がもらえたのです。保険商品も全保険会社同一の商品でどの保険会社で加入しても全く同じ内容で、いわゆる「護送船団方式」という形で保護されていたのです。ところが、アメリカなど外国からの圧力により日本の金融市場を自由化して海外企業も参入しやすくするように求められるようになってきたのを受け、当時の橋本龍太郎総理は「日本版ビッグバン」と称して金融業界の抜本的改革を2001年までに行うことを目標とし、金融業界全体に大きな変革を起こすことになったのです。私たち保険業界への影響としては、保険会社ごとに独自商品が登場し、子会社方式による生損保相互参入が始まるなどで、今までどこで加入しても補償内容も保険料も同じだった損保商品は、保険会社によって補償内容と保険料が違う時代に入りました。そして保険を販売する私たち代理店にも大きな変革の波がやって来たのです。それは、保険商品の自由化だけでなく代理店手数用の自由化も同時に始まったのです。それまで保険会社はどの代理店にも同じレートで手数料を払っていたのですが、保険会社に対する貢献度に応じて手数料レートを変えるようになったのです。具体的には、売り上げ規模とその保険会社の方針にどれだけ従っているかを数値化してポイント制にしそのポイントによって手数料レートが決まるようになったのです。そうなると売り上げ規模の大きい法人代理店の方が有利です。また、その頃の保険会社の方針は個人代理店に対して組織化して法人化するよう求めるようになり、そうしないとポイントが付かない仕組みにしたのです。売り上げ規模が小さく組織化されていない代理店に対してしはそれまでの60%程の手数料しか払われないような状況となったので、個人代理店の多くは、集まって法人化したり、既存の組織化されている法人代理店に吸収合併されるという道を選ぶようになりました。

◎法人代理店と合併して、その代理店を辞めるまで 39才~54才

金融ビッグバンの時代を迎えて私が選択したのは、既存の法人代理店に吸収合併されるという道でした。私は代理店独立後に、あるお客さんの勧めで中小企業家同友会に入ったのですが、そこで懇意になった法人代理店の社長から吸収合併を提案されたのです。始めは自分の独立性が失われることにためらいもありましたが、自力で組織化・企業化するよりも早くできるし手数料ポイントの心配も無くなると考え2001年9月に自分の代理店を廃業しその法人に吸収される形で合併を実行したのです。そこでの仕事はそれまでの自分のお客への対応だけでなく社員として社長の方針に従って会社を発展させることを求められました。給与体系は代理店としては珍しく歩合給無しの完全固定制で年2回のボーナス付という普通の会社のサラリーマンと同じになりました。その会社では保険ショップの展開などの事業を手掛けたり多忙で毎晩10時頃まで残業したものです。しかし、結局ショップ展開はうまくいかずに元の通常の形態に戻りました。そしてここでは理由など詳しく書けませんが、私が入社して13年程経った時に社長が経営権を譲渡して会社を辞めてしまったのです!その後、新社長との折り合いが悪くなり、2016年10月で私は辞めさせられることになったのです。

◎代理店を移籍 54才~現在

思わぬ展開でクビと同じ状況になり、移籍先を探さなくてはならなくなりました。どこに行こうかと考えた時に、同業者で20数年来の釣り仲間でもある久留米の代理店に所属しているYさんに電話して状況を説明しました。すると、自分の代理店の社長に話してみるから相談に来いと言ってくれたのでした。その社長も私とは20数年来の知り合いでたまに釣りに行く関係でした。そして、相談に行くとあっさり「ウチに入ってやってみれば?出勤は営業会議がある日だけでいいよ」と言ってくれたので私もすぐに「お願いします!」と答え移籍することになったのです。移籍先はすぐに決まったのですがここで新たな問題が!所属が久留米の代理店ということで、理由は割愛しますが移管ができない契約が多数出てしまい、保有していた損保の数字を大きく減らすことになったのです。移籍先が福岡市内の代理店なら問題ないのですが、久留米の代理店を断って今さら他を探す訳にもいかないと思い、数字が減るのを覚悟の上、久留米の代理店に移籍することしました。この代理店の給与体系はその前と違って一部固定給はあるものの(金融庁のお達しによりそのようにせざるを得ないため)歩合給が中心なので売り上げ数字が減るということは収入が減るということなのです。また、ここは法人代理店で人数も13人いるのですが各自自分の担当客の対応しかしないのです。つまり、個人代理店が集まって仕事をしているような感じです。そのため一応会社員ではあるものの、また以前の個人代理店に戻った状態です。

◎現在の仕事の取り組み

我が国の生命保険の世帯加入率は約90%と言われていますが、自分が総額一体いくら支払うことになるのか?保障が将来どの様になっていくのか?これが明確にわからないままに加入している人が実にたくさんいるのです。一番の問題は更新型と言われる保険に加入している人の場合で50才を過ぎて更新を迎える時、保険料がそれまでの2倍、3倍になるのが初めてわかって慌てて見直しをしようとする人が多いことです。この時点で見直しをしようとしてもうまくいかないこともあります。最悪なのは、現在の契約内容を確認したらあと10年位で保障が終わることが分かったが既往症を抱えているため新たな保険に入ることも出来ない!しかも今まで払ってきた1,000万円以上の保険料はこのまま契約を続けても殆ど掛け捨てとなり戻って来ない!という状態、つまり、「生命保険で大損!」となってしまうケースです。

こうならないためにはどうすればいいのでしょう?

答えは簡単で、できるだけ若いうちに自分の契約内容を正しく把握して必要であれば適切な内容に見直すことなのです。

このように「生命保険で大損!」とならないように一人でも多くの人を救うことが今の自分の使命と考え、日々の仕事に取り組んでいます。